「いい母親になろう」というプレッシャーが苦しくなっていませんか?
素敵な母親、寛大で人として立派な母親でないと、子どもが苦しくなる。そう思ってはいないでしょうか。
そんな「いい母親でいることのプレッシャー」こそ、子どもにとってつらいもの、悲しいものとなってしまうことがあります。
この記事では、いい母親の定義を捨てることが、親子共に自然に生きていけるようになるというテーマでお話をしていきます。
いい母親って何だろう?母の鏡の「定義」とは?
母親にとっての「子育ての理想像」と「子供の気持ち」は別物です。子育ての主体は子ども。あなたが「子どもにとってこんな母親がいちばんいい」と思っていることを、子ども自身が本当に望んでいるか、またどう感じているかは別なんですね。
- 手料理が上手
- 家事の要領がいい
- 子どもの言うことを何でも聞いてくれる
- いつも笑顔で落ち着いている
- 外見も若々しくてきれい
- 一緒に思い切り遊んでくれる
- 怒るときは、優しく諭すように
一般的な「いい母親」の理想像や「こうしてあげたい」という思いや行動があると思うのですが、それを子どもが心から欲しているかどうかって、案外わからないものです。
つまり、いい母親や理想の母親に定義などないのです。
世の中のさまざまなメディアで「いい母親とは?」について話す人は、みんな大人。今、親の保護下で生きている当の子どもが何を感じているか? という部分がすっぽり抜け落ちていることが、とても多いように見受けられます。
「いい母親になろう」と頑張ったのに、子どもにそれを批判された親子の話
50代の母親と、既に成人した30代の息子という、筆者の知人親子の話です。
この過程は、息子が幼いころから夫婦仲が悪く、度々ケンカや言い争いのある家庭でした。父親も頑固な性格で、感情的になりやすいタイプ。母親は少し大人しいタイプで、亭主関白な父親の言動に対しいつも「がまん」していました。
母親は「子どもに心配をかけないように」「子どもの前では、夫婦の問題をなるべく見せないように」との思いから、何かあっても子供の前では明るく振舞ったり、弱音を吐いたり事情を話したりしないようにしていました。
どこから見ても、いい母親です。一見、子どものために自分の主張や悩みを隠すことができる、立派な母親に見えます。
しかし、息子は大人になってから母親にこう言います。
「お母さんが、いつもがまんしているのを見ていてつらかった。自分さえがまんすればそれでいい、と思っているのがいちばん嫌だった。」
母親からするとかなりショックだったはずです。子どもに迷惑をかけないように、いい母親でいるために、頑張ってきたことがいちばん嫌だったなんて言われることに、どれだけの後悔があるでしょうか。
子どもの幸せを願ってやったことが、すべて裏目に出てしまった親子の話
一方こちらは、とある40代の母親と、10代の息子の話です。
母親は小さなころから貧乏で、働きづめの父と母の下で厳しく育てられてきました。自分のような思いはさせたくない。もっと、適切な教育を受けさせて、経済的に困らない安定した暮らしのできる大人になってほしい。
特に男の子の場合は、きちんとした教育を受けていい学校に入学し安定的な就職先を見つけないと、その先の結婚や孫の誕生までも心配になってしまうものですよね。
そのために一生懸命働き、子どもの教育費や習い事などに平均以上のお金と時間をかけました。大人になったときに困らないように、恥ずかしくないように、立派に人生を歩めるように。根本的な部分はそういった気持ちからの行動でしたが、結局はお金がかかるために生活や時間に余裕がなくなって、すぐに感情的になり子どもに手をあげたり、罵声を浴びせたりするようになり親子関係がめちゃくちゃに。
誰もが、いい母親になりたいですよね。ダメな親でもいいって、思う人の方が少ないです。しかし実際は「子どもにとって、いい母親になりたい」「自分はいい母親になれるはず」という気持ちって、子どもを結局苦しめてしまうことばかり。
その理由は……「子どもの気持ちは、一生かかってもすべて知ることができないから」です。
子どもが感じていることは、一生かかっても知ることができない
どんなに最愛の子どもでも、生まれてから死ぬまでの子どもの気持ちを、そっくりそのまま感じ取ることは絶対にできません。
いくら話しても、いくら見ていても、子どもの心の中を目で見ることも、同じ気持ちになることも、できません。
- 時間をかけて話せばわかる
- 説明や説得をすればわかり合える
- 聞き出そうとすればわかる
これは全部、お互いの気持ちのほんの一部分を共有できるだけであって、完全に「わかり合う」ということはありえません。少しでも、心を通わせるために使うのが「言葉という手段」なだけであって、根本的な部分がまったく同じになるということはないのです。
しかし、どうしても親は「自分が産んだ子」という一心同体感や、「血を分けた子供」という部分で「わかり合うことができる」「以心伝心である」と思い込んでしまいやすいんです。
自分が「これが我が子にとって必要なことだ」「この子のためには、私がこうすべきだ」と思うことが、本当に子どもにとっていいことだとは限らないのです。
他人であれば「人それぞれだもんね」と、寛大に受け止められたり「わかってもらえなくてもいいや」とうまく距離をとることができます。
しかし自分の子どもとなると「心が通じて当たり前」「親の思いを受け取ってくれているに違いない」という過信が生まれてしまうわけです。この勘違いや思い込みが強ければ強いほど、親子の溝が深まってしまいます。
「気持ちが完全に通じ合うことはない」
この事実は、子どもが小さいうちから理解して接していなければならないのではないでしょうか。
「いい母親」はこの世にひとりとしていない
正直「いい母親」「母の鏡」なんて呼べるような人は、きっといないのではないでしょうか。
5人の子どもを育てた人も、子育て経験のあるカウンセラーも、子育て評論家も……
誰かから見て「手本」のようにみえる人は、きっといい母親なんだろうなと思えてしまうこともあります。しかし実際は、そんな人たちも自分で自分をいい母親だと思っていないこともあるし、自分の失敗談を元に「よりよい子育て」を広めようとしていることも多いです。
いい母親……というのは、他の誰かから見ていい母親に見えているだけなのです。
筆者自身、メディアで子育てに関する情報発信をしていますが、それはけっして「自分がいい母親だから、人にアドバイスをしよう」などという動機ではなく「自分と同じようにいい母親像に苦しんでしまう人を、少しでも楽にできれば」という気持ちのほうが圧倒的に強いです。
自分自身が、いい母親になることはできないと、自覚していたいし、それで精神的に楽になったことを皆さんにもお伝えしたいのです。
子育ては親子共に「ただの人」であることがいちばん大事なのではないか
親子関係がこじれるのは「私は親だ!」という強い気持ちからきていることが多いです。
- 子親の指示をを聞くべき
- 親の言うことや考えの方が正しい
- 子どもだから、まだ何もわかっていない
- 親だから立派でなければ
このような考え方はどうしても「親の方が上で、子どもが下である」という上下関係にも通じます。親だから立派であろうとすれば、子どもは未熟であるという考えになってしまうのです。
確かに、親は子供を守ってあげる存在。親がいなければ子供は生きていけないわけですが、それを望んだのは親ですよね。親が子供を生むと決めたのなら、最低限子どもの生活を守ってあげることが必要です。
家庭の中では、それぞれの人がただ一緒に生きているというだけであり、誰が上でも下でもありません。上下関係を無意識に作ると、体罰や過干渉といった無意識の虐待も生まれやすくなります。
立派な母親になろう、いい母親でいようとするのではなく「私はただの人だから、無理なこともあるし、うまくできないこともある」と自覚しておくこと。その中で「自分でもできることがあるのなら、いっちょやってみよう」……そんな感じでも、いいのではないでしょうか。むしろ、そのくらいがいいのかもしれません。/おとこそだて.com編集部

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