間違った子育て
子育てに失敗した
私はまだまだ子育ての真っ最中なので、子育てへの後悔の気持ちは、まるっきり同じように理解できません。
しかし、私の母親はおそらく
「子育てに失敗した」
「間違った子育てで娘を苦しめた」
そんな風に、今も時々自分を責めることがあると思います。
私はいわゆる「毒親育ち」というやつなのです。
毒親という言葉は個人的に使いにくいのですが、毒親育ちだということで自分に自信を持てずにいたり、子育てに不安を抱えている人も多いことと思います。
そんな人に声を大にして伝えたいのは、間違った子育てや、子育ての失敗という概念は、ほとんどが思い込みだということ。
誰しも自分の子育てに後悔する部分を持っていると思いますが、それが直接不幸につながることばかりではありません。
「後悔」することと
子供が感じる「事実」は違うのです。
子育ての結果はいつ出るものなのか
自分の子育てが失敗かどうか判断するには、結果が必要です。
でも、子育ての結果っていつ出るものですか?
子供が成人したら、結果が出るのか。
無事就職したら結果が出たと言えるのか。
結婚して子供を設けたら、結果が出たことになるのか。
子育ての結果をどこで判断するのか、というのは人それぞれです。
また、大人になってから事件やトラブルを起こした場合、それは親の責任ではなくなります。
しかし世間は「親」にスポットを当てて批判したり
当の親自身も「自分たちの子育てが悪かったのだ」と自分を責めたりします。
いつ何が起こるか分からない世の中で“子育ての結果”というものを求めたら、子供が死ぬまでその結果を知ることはできないということになります。
親の後悔と子供の人生は比例しない
例えば、
- 自分本位な子育てをしてしまったせいで、子供がうつや引きこもりになった
- 仕事ばかりで子供を放任しがちで、子供が非行に走った
- 子供との関係が悪化して、絶縁状態となった
このような状況は、一見「子育ての失敗例」です。
どうみても、称賛されるような子育てではないでしょう。
でも、それは親から見た場合の「懺悔」です。
失敗だと自分を責める親は、「ごめんね」という反省の気持ちを持って、後悔しているわけですね。
一方、子供の方はどうでしょうか。
「毒親育ちのせいで私はこんなにつらい」
「もっといい親のもとに生まれたら、私は幸せだったかもしれない」
そんな風に、親を憎む時期は絶対にあるはずです。
しかし、その事実はもう変えられないもの。
体の病気になった人と同じです。
重い病気になってしまった事実は変えられない。
ではこの先の人生をどう生きるか、どうやって治療に向き合うかということが次のステップになります。
そこから先をどう生きていくか、どう捉えて生かしていくかは、子供自身の力や運にかかっているのです。
例えば
母子家庭でさみしい思いをして育った人が暴走族になったり、非行に走ったりします。
そんな過去を克服、更生して、同じような人にアドバイスをしたり、世間の人を感動させるようなメッセージを発する。
こういう例って、よくありますよね。
引きこもりを克服した経験を本にする人。
親に虐待されて育ったから、子育てに人一倍気を遣っている人。
自分の育った家庭にトラウマがあるから、自分の家庭をより良くしようと努力する人。
一見、間違った子育ての結晶のような人間でも、何かの拍子にそれを武器にして生活の糧にすることができるのです。
これは子供の受け取り方の問題や、親との関係修復の問題も絡んできます。
親とのわだかまりが解けないまま、絶縁状態のまま、という場合は前向きに考えて経験を生かすこともできないかもしれませんが、絶対とは言い切れません。
毒親育ちのエッセイ漫画「母がしんどい」の著者である、田房永子さんを例に例えましょう。
おそらくまだお母さんと完全に和解していませんが、彼女の場合も「間違った子育てをされた」経験を自分の人生に生かしています。
つまり、自分の親の間違った子育ての結果さえも自分の人生の武器にできるのです。
私に謝る母、母に感謝する私
私は、母親との関係がきっかけで15歳の時にうつ病とPTSDを発症しました。
不登校になり、精神科にも通い、受験もできず通信制高校に入学、卒業しています。
当時は母も一緒にカウンセリングに通いました。
2年間カウンセリングと通院を行いましたが、根本治療には至らずその後もずっと心の問題とは向き合い続けています。
ただ私は、母に感謝しています。
母との思い出は、嫌な思い出もたくさんあります。
ただ、おそらく
「嫌だった経験」
「つらかった経験」
がなかったら、ここまで子育てに必死になれなかったはずです。
子供が今、何を感じているのか。
本当はどう思っているのか。
裏の裏まで考えるようになりました。
そして、それを情報・意見として発信したり、誰かの相談に乗ったりできる。
これは、私が母からされてきたことを生かしたスキルなわけです。
当然、それを生かすことを思いついて実際に行動しているから言えることなので、全ての毒親育ちの人に当てはまることではないと思います。
しかし
「普通の人には見えないもの。」
「普通の人には気付かないもの。」
を簡単に感じることができるのです。
私の母は、たまにぽつりと私に当時のことを謝ってきます。
「ごめんね、もっとのびのび育ててあげればよかった。」
と言います。
でも、私は本心から
「のびのび自由に育っていたら、自由に生きることに感謝できないだろう。」
と思っています。
つらい経験をして育った人は、人より抜きんでた感性を持っていて当然。
そしてそれをいくらでも生かす場所があると思っています。
【具体例】
私は、小さなころからバレエを習っていて、母親にもかなり厳しく指導されていました。
母はバレエ経験者ではありませんが、私に素質があったことから「もっとうまくなれる」という確信を持ち、厳しく練習させられていました。
やめたいと思ったことも何度もあるし、バレエのことで母娘がもめるのは日常茶飯事。
でも、私にはバレエしかないという感覚すらあったので、やめるにやめられない状況でもありました。
そんな幼少を、母は時々謝ります。
でも、私はそのことではまったく母を恨んでいません。
息子しかいない私は、豊富なバレエ経験のおかげでお友達の女の子とバレエの話をしたり、アドバイスをしたりすることもあります。
本来、子供のバレエに触れにくい環境なのに、私の経験のおかげで交流の輪が広がっているのです。
また、強靭な脚力と体力は子育てにも趣味にも生かされています。
もちろん、母が私に「悪かった」という心からの反省を見せてくれているからこそ、私は納得できている部分も大きいでしょう。
しかし、母が「子育てを間違った」と思う“後悔”と
私が今こうして幸せに生きている“事実”は、全く比例関係にありません。
間違った子育て・子育ての失敗なんて存在しない
間違った子育てや子育ての失敗など、存在しません。
ある程度、子供は自分で考えて育っていく部分があります。
親からの影響だけが、人間の人格形成に影響するものではないはずです。
さらに、子供を苦しめてやろうと思って、子育てする人はいません。
(少なくとも、悪意のある人や子供に関心が薄い人は、こういう記事を読んでいないと思います。)
そのときの親の行動や選択は、親が良いと思って実行したことや、そうしたかった希望。
親の人生の原動力だったはずです。
私の例で言うと、「母が私に厳しくバレエを習わせたこと」は、母の生きる原動力だったのです。
これを、私自身が「間違った選択だった。」と否定することは、なんだかおかしいような気がしてしまいます。
子供は親の所有物でこそありませんが、人生の一部であることは確かです。
そのときの希望や選択を否定することは、誰にもできない。
つまり、間違った子育てや、子育ての失敗という概念こそが間違ったものなのではないでしょうか。
さいごに
もちろん、人を育てていくわけですから責任は重大。
正しく選択することや、子供ためを思って行動することが親の務めです。
でも、その選択が間違っているかどうかということは、今すぐ決められることではありません。
だから子育てに悩んでふさぎ込んだり、自分を責めたりしないで欲しいのです。
子育ての本質とは
「どれだけ正しいことをしたか」
ではありません。
「どれだけの時間、子供のことを想ったか」
ではないでしょうか。
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